随筆練習帳

随筆(エッセイ)の練習帳。原稿用紙6~7枚分を目指して

6年2組の名漫画家

 

 6年2組には、漫画家がたくさんいた。「友情、努力、勝利」にあこがれた少年と、学園パロディを読み耽った少女とが、こぞって漫画を描いていた。私もその中の一人だった。

 

 休み時間に漫画を描くことが習慣となっていた。私の作品は、そのころ好きだった、たまごっちやどうぶつの森の二次創作が中心である。宿泊学習などの学校生活や、妹とのごっこ遊び、ゲーム内で実際にあったことなどを題材にして漫画を描く。

 

 思い出せる限り、私の小学生時代一番の力作は、たまごっちの二次創作の「たまレンジャー」だと思う。かっこいいヒーローに憧れたたまごっち5人が不思議な力を手に入れて、たまごっち星を狙う敵と戦う漫画だ。今考えると技名にしろ衣装にしろ相当ダサかったが、あの時は使える技術を駆使して得意げに描いていたものだ。当時は本気で漫画家になりたいと考えていた。

 

 漫画を描くのも楽しいが、友達に見て読んでもらうのがまた楽しい。ちゃんと漫画を描くとなると、みんながみんなやることではないので、読んだ人は大体褒めてくれるから気分がいい。漫画を描いていた他の子たちもそうだったのか、いつしか漫画を描く同級生の中でコミュニティができていった。

 

 私は自由帳にガリガリと書いていく派だったが、描いた漫画を単行本形式にまとめている同級生もいた。よくあるパッド状になっている落書き帳から1、2枚紙を離し、半分に折ったものに漫画を描いていく。できた単行本は学級文庫に陳列することが許されていて、クラスの人たちは作者に断るでもなく、勝手に借りて読む。最新巻を読み終わると、まるで売り物の作品を読んでいるかのように、次の単行本の完成が待ち遠しかった。

 

 1番人気は、ある男子(うごメモ時代のペンネームからB先生と呼ぶことにする)が描いたアクション漫画だ。ごく普通の野球少年Oは、ひょんなことから地球を侵略しようとする敵に出会い、仲間たちとともに地球を守ることになる…みたいな内容の漫画だった気がする。序盤どうやって始まったか覚えていないのが惜しい。

 

 主人公とその主な仲間たちは、6年2組の同級生をモデルにしており、それぞれ自分の得意分野を生かして戦う。主人公Oは野球、2枚目キャラのYはバスケ、紅一点のYはピアノ…といったようなものである。同級生がモデルなだけあって、漫画が雑談のネタにもなりやすい。B先生が同級生のことをどのように見ているかもわかるのがまた面白い。

 

 敵キャラの個性の強さも特徴だった。外見もさることながら、セリフの癖が強い。一番印象に残っているのは、戦闘中、余裕綽々(しゃくしゃく)な敵キャラが発した「早く帰ってケーキ食いて―」である。超むかつく。むかつくからまた印象に残る。何度このセリフのモノマネをしたことか。

 

 ここまで書いておいてなんだが、B先生のこの作品、キャラクターデザインの基礎は棒人間なのである。顔の特徴こそ十人十色だが、体は棒人間。キャラデザはシンプルの域を超えていたが、それでも本当に面白かった。内輪ネタのようになっていたのもあるのだろうけれど。シンプルゆえに、誰でも真似して描けるのも楽しかった。

 

 残念だったのが、終盤キャラクター数が増えすぎて、ついていけなくなってしまったこと。70話を超えたあたりからだんだん物語が複雑になってきて、物語が最後どうなったのか全く覚えていない。100話を超えたことしか思い出せない。もしかしたらこれも連載が長い漫画の現実なのかもしれない。それにしても、覚えていないことが悔しい。

 

 B先生は高校を卒業後、専門学校に進学して漫画かイラストのことを学んでいるようだ。飽きないなあと思ったが、そういう私も来春から専門学校で同じようなことを学ぼうとしている。そういう仕事に就こうとするぐらい強烈な経験をしたのだと思う。

読書力をつけなければいけないような気がする

 

 齋藤孝「読書力」を読んだ。

 

 図書館で借りてきて読み始めたら、割と序盤に「本は本屋に行って身銭を切って買うべきだ」「本屋に行けばすぐ手に入る本を図書館で借りているようでは見込みがない」みたいなことが書いてあって、申し訳なくなった。誰だ、この本を図書館に置いたのは。この本を借りる行為が既にこの本の主張と矛盾しているではないか。

 

 齋藤先生が「読書力」がある、と考えるラインは、文庫本100冊、新書50冊を読破しているレベルだという。私は今まで、どれだけ読んできたのかと気になったので、読書管理アプリをインストールして、今までに読んだ記憶のある本を片っ端から登録していった。今、やっと60冊台に乗っている。

 中学生の時に読んだ本とかあまりおぼえてないし、高校生ではあまり読書をしないできてしまったのが痛い。中学時代に、山田詠美の「蝶々の纏足/風葬の教室」を読んだことはやけに覚えている。植物図鑑とか読んでおけばよかったのに。老人と海を避けないでおけばよかったのに。教室の後ろに学級文庫があった時代にもっと読んでおけばよかったと後悔している。

 

 最近は、というか、高校生あたりから小説を読むことが少なくなってきて、もっぱら新書か単行本ばかり読んできたので、文庫本のストックが少ない。急遽ブックオフで3冊ほど買ってきた。

 

 150冊までまだ倍以上ある。頑張って本を読むのもそうだが、今まで読んだ本を思い出さなければいけない。60冊しか読んでないというのはあり得ないだろう。思い出せていない本があと10冊はある気がする。見れば「ああ、読んだことある!」と思うはずなのだ。図書館を巡回して思い出すしかないだろうか。

 

 どこまでを本としてカウントすればいいのかも悩みどころだ。中学生のころむさぼり読んだ「まんがで読破」シリーズはカウントしていない。ちゃんとオリジナルも読んでおけばよかったのに!ティーンズコーナーに置いてあった「ハッピーバースデー」はアウトだろうか。一応形は文庫本なのだが。文芸書版も読んだことがあるから、それと一緒にカウントしようか。同じ理由で「カラフル」も迷ったが、こちらは悩んだ末にカウントしてしまった。羅生門を教科書で読んだ、とかはまあダメだろう。

 

 いまアプリを見返してみたら、ことのほか単行本が多い。齋藤先生的にはあまりよろしくない感じなのだろうか。いや、でも単行本数えないと無理だ。全然足りなくなる。

 

 ブックオフや書店で本を物色するのと並行して、青空文庫にも手を出してみた。なんと無料で文豪たちの名作が読めるのである。全然身銭を切ってないじゃないか。今は「吾輩は猫である」を読んでいる。上下巻に分かれていないので、ものすごく長く感じる。全然読み終わらない。

 

 読書力をつけると、情報処理能力が上がって、語彙力が上がって、コミュニケーション能力も上がるのだそうだ。読書力でもつけなければ、私はこの世の中で生きていけない気がする。150冊への道のりは険しい。

 

 

「頭のいい人」とテスト

今週のお題「テスト」

 

 テストは昔から真面目に受けていた。小学生の頃はもちろんテスト勉強なんかしていなかったが、宿題のドリルがテスト範囲になっていたりするので、宿題を真面目にやっていた私は100点か95点ばかり取っていた。小学生のテストなんてみんなそこまで悪い点数は取らないだろうに、その時点でなぜか同級生には「頭のいい人」扱いされていた。この「頭のいい人」のレッテルは、以後長く私を苦しめる。

 

 中学生になって初めて受けた中間テストは、数学で100点を取り、英・国・社・理は96点、合計484点で学年2位だった。同率2位であった小学校からの友人も数学で100点を取っていた。彼女は後に県トップの県立女子高に入学、この時学年1位であった男子生徒は県トップの県立男子高に推薦入学した。私は地元の県立女子高に入学した。大して勉強にも、トップ校に行くことにも興味がなかったのだ。

 

 しかし、入学後初の定期テストで学年2位なぞになってしまった私は、不覚にも中学卒業まで上位争いに巻き込まれてしまうことになる。普段は課題で出された分の勉強しかしない私だが、真面目で従順な性格ゆえに、テスト勉強はまじめにやってしまう。その分成績は良くなってしまうので、さらに上位争いに巻き込まれる。厄介だ。

 

 テストの結果が返却されれば、同級生はまず、私ら上位常連衆の順位を聞いてきた。定期テストの順位はちょっとしたゴシップのようだった。1度学年1位になってしばらく経てば、担任までもが「1位に返り咲いたりしてみたくない?」などと言ってきた。もちろん1点差で同級生に負けたり、成績が下がったりすれば悔しがりもしたが、ほっといてくれよ、と中学生ながらに思っていた。

 

 成績が良いことは何も悪いことではなく、むしろ歓迎すべきことなのは当たり前だ。それでも、そこまで勉強の意欲もないのに、「頭のいい人」のレッテルに取りつかれ、トップ内の競争の面倒さや外野のうるささに巻き込まれて疲弊していた私は、最初からこんなに真面目に勉強しなければ、ここまで面倒臭くならなかったろうに、などと考えたものだ。贅沢な悩みだが、当時は本気で悩んでいた。

 

 中学を卒業し、高校に入学した私は、「頭のいい人」のレッテルの呪いをやっと解くことができると、内心ひそかに喜んでいた。しかし、入学直後の課題テスト、ふたを開けてみれば、中学生のときと大して学年順位が変わらない。これでは「頭のいい人」の呪いが解けないではないか。中学のときより成績の平均が上がっているはずなのに。学年の人数だって倍以上になっているのに。何故。

 

 そうは言うものの高校1年の1学期期末試験。勉強不足だった数学で平均点を切ってしまった私は、ものすごく落ち込むことになる。悪い点数を取ることに対する免疫がついてないのである。そうなると、いくら「頭のいい人」から抜け出そうとしても、無理な話だ。もう私には、勉強するしか道が残されていなかった。

 

 当たり前のことだが、ちゃんと勉強するようになったら、ちゃんと成績も順位も伸びてしまった。順位だけ見れば中学時代よりも上だ。中学ではそんなことなかったのに、模試を含めて学年1位をがんがん取るようになった。そして一番良かったのは、私が学年何位だろうと、周囲がしつこく順位を聞いてくることがなくなった。担任だって、試験の成績を渡すときは黙って渡していた。テストのたびに「頭がいい人」かどうか、確認されることがなくなった。

 もちろん「頭がいい人」というイメージは高校3年間も付いて回ったが、どうせ勉強しなければならない進学校という環境の中でそう思われるのは、むしろ誇らしくもあった。高校時代はテストの成績が良かったおかげで、勉強友達から始まってかなり親しくなった友人もいる。そのおかげで今勉強嫌いにならずに済んでいる。環境って大切だと思う。

 

 以上、テストとレッテル貼りの思い出の話。今月は乙4の試験があるので、テスト勉強にラストスパートをかけているところである。

 

 

 

自分のことを話すことが苦手で、もっぱら聞き手役に回る

 

 私の友人のほとんどは、自分のことをよく話す。好きなゲームやアニメや小説の話、大学生活の話、旅行の話、恋愛の話、宝塚歌劇団の公演に行った話、アルバイトの話など、話の内容を挙げていけばきりがない。とにかくよく話す。よくそんなに話すネタがあるな、と感心してしまうほどよく話す。私は主に友人の話を聞いている、聞き手役だ。

 高校生の時、何人かの先生と雑談する機会がよくあった。雑談と言っても、その場合も、やはり向こうが自身のことを話すのが中心で、私は主に聞き手役だ。足を怪我した話、校長先生のマグカップの話、息子の受験の話、先生のあだ名の話など、やはりたくさん話す。私はそれを聞いて、相槌を打つ。

 私はそのことを不満に思っているわけではない。そうやって人のいろいろな話を聴けるのは楽しい。それに、私は自分のことを話すのを苦手としている人間なので、かえって助かっている。天性の聞き手なのだ。教務主任の先生と会話していた時に、「あなたは相手の話を本当に楽しそうに聞くのね。こっちも嬉しくなっちゃってどんどん話を続けてしまうわ」と言われたときは心底嬉しかった。

 しかし、私と同じように自分の話をするのが苦手な人と会ったときは大変である。自分から話すのが苦手なうえにいつも聞き手役ばかりやっているので、何を話せばよいか、いちいち頭の中で考えてしまうのである。いつもは相手から話をしてくれるからそれに乗っかっていけばよいが、この状況では乗っかる話がない。その人と会いたいから会ったのに、うまく会話ができなくて微妙な雰囲気になってしまうのは情けない。

 そもそもこういった、私と同じタイプの人間に出会うことが珍しいので、場数をこなして慣れることも難しい。私の知り合いでも1人か、2人いるかのレべルだ。いつもは聞き役でも、私と話すときは向こうから喋ってくれる人の方が多い。

 なぜこんなにも自分から話し始めるのが苦手なのだろう。別に話題がないわけではないと思う。好きなものや趣味はあるし、普通に生活していれば愚痴とかも話せるだろう。多分、なんとなく自分の好きなことや自分の生活に後ろめたさを持っている気はする。自分のやっていることに自信が持てていないのだ。

 普段どんな生活をしているかとか、なぜか大っぴらに言えない。別に、例えば昼まで寝ているとか、一日中漫画を読んだりゲームをしていたりする、と正直に言えばいいのに、そういうことが言えないのだ。中学高校では中途半端に成績が良かったりしたから、さぞ休日も勉強ばかりしているのだろう、と思われているような気がして、そのイメージを崩すようなことを言う勇気もなかった。

 変に気にしいなので、「こんな話をしても退屈じゃなかろうか」とか、余計なことを考えたりもする。とくにに相撲が好きでない人に、やれ鶴竜が可愛いだとか、錣山親方がハンサムだとか、輝が今キているだとか言ったって困惑されてしまう。だからと言って相撲を知らない人向けに簡単な話をするのは自分がつまらない。だったら話さなくてもいいか、と思ってしまう。

 来春には専門学校への入学というイベントが待ち構えているので、その時にはもう少し自分のことを大っぴらに話せるようになりたい。ただ入学する学科(イラストレーション系)の性質上、さらに聞き手役の性格を強めることになりかねない気もしている。オタクは自分の好きなことをよく話すから…。

 

 

 

文章を書きたい

 

 私は割と文章を書くのが好きだ。読書感想文、作文、小論文、志望理由書など、学校で書かされる文章はことごとく避けて生きてきたが、自分の思ったことをノートやパソコンにずらずらと羅列していく作業は大好きだ。

 中学生のころから、自分の思ったことをただ綴っていくノートを作った。大して冊数は増えていないが。そういえば、これも中学生のとき、何を思ったのか、キャンパスノートを使って友人と交換ノートもやっていた。一度に2~3ページを使うのは当たり前だった。味気ないノートに文字を書いていくのがなにかクセになるのだ。

 さて某日、図書館に訪れた私は、入り口付近に置いてあるチラシやフリーペーパーなどを物色していた。その中に、県の文芸賞作品募集の紙が置いてあるのを見つけた。募集作品の対象部門は創作・随筆・詩・短歌・俳句・川柳の6つであった。

 創作文を作る趣味は残念ながらない。物語を作るのは本当に苦手だ。小学生のころ、漫画家になりたいと思っていた時期に、物語が作れなくて漫画を描くのをあきらめたくらい苦手だ。そんな私が原稿用紙50枚も書けるわけがない。

 詩も苦手だ。まず、何をモチーフにするかとかが決められない。俳句の類は作るのに慣れていない。応募するには10首か10句か作らなければいけないので、現実的じゃない。

 その中で、なんとなく、随筆なら書けるか、書いてみたいな、と思ってしまったのだ。それで出品票の付いたその紙を持ち帰ってきたはいいものの、応募基準は原稿用紙6枚以内。普段書いているブログの文字数だって、多くて1000文字である。6枚書いたら単純計算で2400文字。今の力では書けるわけがない。なぜできると思ったのか。自分の考えの足らなさに呆れかえる。

 普段記事を投稿しているブログで練習してみることも考えたが、そのブログの記事は全体的に文体がですます調で、なんだかおりこうさんな感じの雰囲気で、これから書こうとしている文章とは合わない。記事も相撲の話とかで埋まっているし。

 そこで新たにブログを開設することにした。タイトルは「随筆練習帳」で、何の捻りもない。しかし別に人に見てもらう必要もないのだ、わざわざ面白いタイトルにしなくても構わないだろう。

 何を書くか。さすがに1日の出来事で2400字書くのは、少なくとも今の私では無理だろう。生活の中での気付きとか、考えてみたこととか、そういうことの方が文字数は多く書けそうだ。昔の、思い出話とかでもいいかもしれない。まだ20年も生きていないので、思い出の絶対数が少ないのが難点ではあるが。

 とにかく文字数を多くするのが今の目標なので、今回の決意表明から気合を入れて文字を増やしてみた。今回の文字数は1170文字で、目標の5割弱に終わった。次回はあと100文字くらい増やせるように、どうにか精進しよう。