随筆練習帳

随筆(エッセイ)の練習帳。原稿用紙6~7枚分を目指して

なぜ私は水溜りボンドを好きなのか

 

 最近ご無沙汰だったけれど、1週間前ぐらいか、急にスマホで水溜りボンドの動画を見たくなった。1つ見たらまた1つと、見事に再びはまった。その直後の7月21日、水溜りボンドのチャンネル登録者数が200万人を超えるという幸運に遭遇する。なんてタイミングが良かったのだろう。

 

 200万人突破によせて、私が水溜りボンドを好きな理由、そして私なりの水溜りボンド考察を書こう。どちらかというと視聴者向けになっていると思う。

 

 

 

 私が水溜りボンドを好きな理由の一つは、トミーがカンタのことを大好きなのがよく分かるから。カンタのファン第1号の座は譲らない、というカンタ愛が、動画を見ていても、Twitterを見ていてもよくわかる。カンタのやることが大好きで、ずっとカンタについていきたい、というトミーの気持ちに惹かれてしまう。

 

  トミーとカンタの2人が揃っている限り、水溜りボンドは不滅だという安心感。ひたすらにカンタを慕い続けるトミーへの、何とも言えない好意。そこまで尊敬し、夢中になれる相棒がいることへの嫉妬。私の中ではこういう気持ちが共存していて、すべてひっくるめて、魅了されているなあと思う。

 

 

 カンタとの、お互いに対しての意識に差があるのもたまらない。カンタはあくまでも「2人で」やっているという意識を持っている。それに対して、トミーは「カンタが」やっていることが好きで、それを一番近くで見ている、というスタンスなのだ。

 3度の解散ドッキリ動画を見るとよくわかる。「カンタのやりたいことのためなら、解散もやむを得ない」と考えているトミー。「2人で水溜りボンドをやっているのだから、自分だけでは意味がない」と考えるカンタ。

 

 2人とも「2人で水溜りボンド」という意識でやっているとしたら、設定として普通過ぎる。彼らの間にある「意識のずれ」は、青年の友情モノとして最強の設定だとしか思えない。

 

 

 意識の持ち様だけじゃない。2人の育ちの対比が、これまた最強設定だ。

 

 3兄弟の末っ子として生まれたカンタ。両親の職業の都合上、マレーシアで生まれ、小学生時代をシカゴで過ごすという、特殊な幼少期を経験している。日本に帰ってからは、中高生時代はバスケットボール部に所属し、学級委員長など務めたりしていた。高校卒業後は現役で青山学院に進学するという、典型的な優等生タイプだ。

 

  千葉に生まれたトミーは、クリスマスのお祝いがないような、超厳しい家庭で育つ。その反動かなんなのか、中学では番長と呼ばれるほどのやんちゃを経験したり、いじめに遭ったりする。高校時代はほとんど勉強しなかったという彼は、偶然出会ったお笑いに感化されて、心機一転猛勉強。1年の浪人を経て、青山学院に入学した。

 

 そういった育ちの面を背景にした、カンタの真面目さ、謙虚さ、控えめさ。トミーのおおらかさ、豪快さ、優しさ。そういうものが「水溜りボンド」の中で存在感を表すときが一番しんどい。何も言えなくなるほどの、肯定的な感情が襲ってくる。

 

 

 彼らの過去を詳しく知りたい方は、YouTubeで「カンタ お坊さん」または「トミー 元ヤン」で検索すると出てくる動画を観てほしい。

 

 

 

 ここまで書いていて、無意識のうちにトミー派になっている自分に気付く。普段はどっち派とか、あまり考えていない体でファンをやっているが、実はトミー大好きだろう、私。

 

 

 ここでなんとなく、個人的な水溜りボンド観を述べておく。

 動画を投稿するだけであれば、多分カンタだけでも成り立つ。真面目なカンタなら、1人でも、他の人とのコンビでも、毎日投稿を続けることはできただろう。企画力もあるから、面白い動画は作れる。

 

 ただ、それは(当たり前だが)水溜りボンドじゃない。トミーがいて初めて、「トミーとカンタが動画を作っている」意義が作られる。

 水溜りボンドの動画に特徴的な、自然体さとか、しょうもなさとか、2人が率先して楽しんでいる様子とか、そういうものはトミーがいるからこそである。カンタの隣にいるのは、ただ仲のいい友達では足りない。カンタを尊敬して、カンタの面白さを積極的に伝えようとするトミーが必要なのだ。

 

 トミー1人での活動、というパターンを考えていないことに気付いた。言うまでもないが、動画を出したいと提案したのがカンタだった以上、トミーだけでの水溜りボンドは成り立たない。何かのきっかけで動画を出すことになっても、毎日投稿にはならなかったと思う。

 

 

 色々考えながら書いたが、どうしても、カンタの次にトミーがいる、カンタをトミーが支えている、というニュアンスから脱することができない。

 でも実際そうなのだろう。トミーのスタンスに照らし合わせればごく自然なことだ。トミーが「カンタの面白さを伝えたい」という意志のもと水溜りボンドに参加している限り、カンタをトミーが支えているという構図は無くならないと思う。

 

 だから、どうしても上記のような構図で水溜りボンドを見てしまう、と心配している視聴者は安心してほしい。あなたにはトミーの意思が的確に伝わっている。そういう心配をしているあなた、多分トミーファンなんじゃない?

 

 

 ああ、だめだ、かなりトミー側にかたよった文章になってしまった。これじゃ水溜りボンドを好きな理由が「トミーが好きだから」になってしまう。いやそれも理由の1つにはなるんだけれど。

 

 

 最後に、どちらかというとカンタ側に寄った「好きな理由」を書こう。それについて最近引っかかっていることもあるから、よければ読んでほしい。

 

 私は、日々新しいことに挑戦する水溜りボンドが好きだ。チャンネル登録者数が増えて、やれることが増えてくるにしたがって、ちゃんと新しいことに挑戦している。RPGに例えると、レベルが上がったら、今までよりも難易度の高いクエストを引き受けている。

 

 コラボへの挑戦、ワクワクさんへの出演依頼、米村でんじろうサイエンスプロダクションへの実験協力依頼。そういう、カンタさんの行動力は本当に見習いたい。きっと、自分たちの夢を叶えるため、そして視聴者に喜んでもらうための行動なのだろう。そういうところが大好きである。

 最近は特にその傾向が顕著、というか、1回あたりのレベルの上がり方が大きい。無人島生活、村づくり、大量系企画、ジェット機搭乗など、お金の面でも時間の面でも、できるようになったことを遠慮なくやっている。そうやって、やりたいことに挑戦できている彼らは、どうしようもないくらい楽しそうなのだ。見ているこちらも、我を忘れて爆笑する。

 

 そういう彼らの変化の中で、最近「水溜りボンドらしさ」という問題が浮上してきた。昔の方がよかった、という意見が目立つようになった。お金をかけ過ぎだ、という視聴者が出てきた。

 

 

 

 水溜りボンドに伝えたい。やりたいことでやれることは全部やってくれ。お金をかけようが時間をかけようが、やりたいことをやってくれ。面白いと思ったことをやってくれ。

 

 

 

 企画内容の変化によって水溜りボンドらしさが無くなることはないと、彼ら自身が言っていた。だったら視聴者として、とことんその言葉を信用しようではないか。

 

 私はトミーと同じように、カンタのやることを観ていたい。カンタの面白さを、身をもって伝えるトミーを観ていたい。できるだけ長く、たくさんのことに2人で挑戦してほしい。私は彼らの変化も変わらないところもひっくるめて、大好きな水溜りボンドとして、できるだけ長く見守っていたい。

 

 彼らの変化についていけなくなったら、振り落とされる覚悟だ。