随筆練習帳

随筆(エッセイ)の練習帳。原稿用紙6~7枚分を目指して

好きな食べ物はなんですか

 私が人に愛されている実感がないとか、わかってもらえないという感覚を持つのは、私が人に自分のことを話さないということが一因となっているのかもしれません。これは卵が先か鶏が先かという話になってしまうのですが、「どうせ話してもわかってもらえないのだろう」という思いから、自分のことを話さないというのは、実際あります。

 

 聞き役に徹していれば―これはほとんど無意識にそうしているのですが―相手の話は大概聴いていて面白いものだし、相手だって話を聞いてくれる人がいれば嬉しいし楽しいですから、基本的にwin-winです。それで私は余計に自分の話をする機会が減ってしまうのですね。

 

 会話のきっかけとして質問はよく使われますが、なかなかうまく答えられない質問も少なくありません。困ってしまう質問に「好きな○○」があります。「好きな食べ物」を尋ねてくるとき、質問者はなぜか答えが一つであることを想定しているのです。私は好き嫌いが(食べ物に関しては)あまり多くはないし、何でもおいしく食べられる人間なので、正直に好きな食べ物を答え始めたらきりがなくなってしまいます。

 

 辛いものが好き、と言うと、少し個性が出ていいかもしれません。担々麺や四川風麻婆豆腐なんてのは大好きです。わさびも平気だし、タバスコや一味唐辛子は食卓に必須です。

 

 でも、甘いお菓子も大好きです。夏にはアイスが常に冷凍庫に入っているし、夏以外の季節にはチョコレートが常備されています。ドーナツ屋さんにもよく行くし、たまにプリンやコーヒーゼリーが無性に食べたくなることもあります。

 

 もう一つ個性のある答えをすると、シナモン好き、というのもありますね。家にシナモンパウダーの瓶が置いてあるくらい好きです。シナモンロールも好きだし、アップルパイも好き。外国産のお菓子は、シナモンがたっぷり入っているものがたくさんあっていいですね。家ではシナモントーストをよく作っています。トーストにグラニュー糖とシナモンパウダーをかけるだけなんですけれどね。

 

 あとはさっき担々麺が出てきたけれど、ラーメンは好きだし、お寿司も好き。お寿司の中ではつぶ貝が特に好きです。後はカツオとか、アジとか。お蕎麦も好きですね。鴨南蛮が一番好きです。

 

 自分では、煮物とか炒め物を作ることが多いですね。私の自炊のモットーは「いかに大量の野菜を効率よく摂取するか」にあるので、そういういっぺんに何食分も作れる調理法に頼ってしまいます。

 醤油と酒、みりんを使う和風の煮込みも、味噌煮込みも、コンソメで煮るのも好きです。寒い時期はポトフとかよく作ります。

 レトルトの中華の素を買ってきて、中華料理っぽいものを家で作ることもあります。たいていの場合、材料がそろっていません。回鍋肉なのに豚肉じゃなくて鶏肉が入っているとか。

 洗い物が面倒なのであまり作りませんが、気が向くとカレーも作ります。鍋が焦げ付くのが嫌なので、炊飯器を使って煮込みます。途中で灰汁だけとって、炊き上がる少し前にルウをとかせばいいだけなので、とても重宝しています。

 

 母の作る料理で好きだったのは、出汁がたっぷりの和風スープです。だしを取った昆布がそのまま入っていて、鶏の肉団子なり豚肉なり、後は白菜や白ねぎが入っていました。

 彼女は朝食を前の晩に作るのですが、それが毎回とても工夫された食事なのです。朝食を作ることは、彼女の趣味の一つのようにも見えました。

 あと、これは本当にたまになのですが、鶏肉の大きな照り焼きのハンバーグを作ってもらいました。上に載った卵黄を割って、家族3人でつつくのです。あれは本当においしかった。

 

 辛いものとシナモンのほかにもう一つ、個性のある答えがあるのを思い出しました。

 私はチョコミントフレーバーが大好きなのです。最近チョコミントが市民権を得つつあることが本当にうれしくて、お店で見かけるとつい手が伸びてしまいます。お菓子はもちろん、蒸しパン、メロンパン、チョコミント味の豆乳なんてものもありました。

 小さいころ、母にシャトレーゼに連れて行ってもらって、アイスを買ってもらうことがよくありました。その時から何故かチョコミントのアイスを選んでいました。子どもはミントのあのスースー感とかが苦手そうなものですけれど、不思議ですね。

 

 そうそう、好きな食べ物を尋ねられたら、本当はこのくらいのボリュームで回答したいのです。それが頭の中で渋滞して、うまく言語化できなくて、スムーズに答えられないのです。

2018年やりたいことなど

今週のお題「2018年の抱負」

 

 ラフマニノフ交響曲第2番をコンサートで聴く。1月号のぶらあぼを見て、聴きに行くコンサートの目星はつけてある。予定さえどうにかなれば行くつもりだけれど、そういえば、プロのオーケストラの演奏会に行ったことがない。

 何となくちゃんとした格好をしていけば良いのだろうか。何か特別なマナーとかあるのだろうか。ガラコンサートじゃなければ割と気軽に行ってきていいのだろうか。

 

 ヘ音記号の楽譜が読めるようになる、ホルンのinF以外の楽譜を読めるようになる。先日、地域のホルンアンサンブルの集まりに初参加してみたのだけれど、オケ経験者(プロ含む)が標準レベルらしく、ト音記号のLowBより下の音とか、ヘ音記号が普通に楽譜に出てきて、対応できないのが物凄く悔しかったので。

 その音域の音自体は出るけど、普段全く楽譜に出てこないので、油断していた、というか想定外だった。アルメニアンダンスだって最低音はLowDだし。ソルフェージュを頑張る。

 inFしか読めないとかなり不便なことにも気づいた。モーツァルトのホルン協奏曲第1番はinDだったので、印刷したはいいが放置してある。コプラッシュを買うことを検討中。

 

 キルフェボンのタルトを食べる。去年から食べたいと言いながら、結局今年は食べに行くことができなかった。イチジクか、桃のタルトを食べたいとずっと思っている。来年こそは絶対食べるぞという決意をしてみる。

 

 友達と遊ぶ。毎年遊ぶことは遊んではいたのだけれど、地理的な制約があったので、年に1度か2度くらいが限界だった。その制約が取っ払われた今、「今週末カラオケ行かない?」くらいのノリで遊びに行きたい。大人数集まらなくてもいいから、もっと頻繁に遊びに行かないと精神的な活力を保てないのだ。

 

 演奏会のプログラムのデザインを担当したい。せっかくそういう専門学校に行くので、なにかうちの団体のお役に立ちたい。先日うちの楽団の事務局長と話す機会があって、「もしよければ」というお話をいただいたので、すごくやってみたい。私のポートフォリオのページ数を少しでも増やしたいというのもある。

 

 余裕のある優しい大人になる。2018年の2月に20歳になるので、なりたい大人像に少しでも近づければと。余裕のある人を見るとこちらも気持ちが楽になるし、ずっとイライラしてるような人とは一緒にいて落ち着かない。一緒にいて心地がいいと思われる人になりたい。

 

 

なぜ私は水溜りボンドを好きなのか

 

 最近ご無沙汰だったけれど、1週間前ぐらいか、急にスマホで水溜りボンドの動画を見たくなった。1つ見たらまた1つと、見事に再びはまった。その直後の7月21日、水溜りボンドのチャンネル登録者数が200万人を超えるという幸運に遭遇する。なんてタイミングが良かったのだろう。

 

 200万人突破によせて、私が水溜りボンドを好きな理由、そして私なりの水溜りボンド考察を書こう。どちらかというと視聴者向けになっていると思う。

 

 

 

 私が水溜りボンドを好きな理由の一つは、トミーがカンタのことを大好きなのがよく分かるから。カンタのファン第1号の座は譲らない、というカンタ愛が、動画を見ていても、Twitterを見ていてもよくわかる。カンタのやることが大好きで、ずっとカンタについていきたい、というトミーの気持ちに惹かれてしまう。

 

  トミーとカンタの2人が揃っている限り、水溜りボンドは不滅だという安心感。ひたすらにカンタを慕い続けるトミーへの、何とも言えない好意。そこまで尊敬し、夢中になれる相棒がいることへの嫉妬。私の中ではこういう気持ちが共存していて、すべてひっくるめて、魅了されているなあと思う。

 

 

 カンタとの、お互いに対しての意識に差があるのもたまらない。カンタはあくまでも「2人で」やっているという意識を持っている。それに対して、トミーは「カンタが」やっていることが好きで、それを一番近くで見ている、というスタンスなのだ。

 3度の解散ドッキリ動画を見るとよくわかる。「カンタのやりたいことのためなら、解散もやむを得ない」と考えているトミー。「2人で水溜りボンドをやっているのだから、自分だけでは意味がない」と考えるカンタ。

 

 2人とも「2人で水溜りボンド」という意識でやっているとしたら、設定として普通過ぎる。彼らの間にある「意識のずれ」は、青年の友情モノとして最強の設定だとしか思えない。

 

 

 意識の持ち様だけじゃない。2人の育ちの対比が、これまた最強設定だ。

 

 3兄弟の末っ子として生まれたカンタ。両親の職業の都合上、マレーシアで生まれ、小学生時代をシカゴで過ごすという、特殊な幼少期を経験している。日本に帰ってからは、中高生時代はバスケットボール部に所属し、学級委員長など務めたりしていた。高校卒業後は現役で青山学院に進学するという、典型的な優等生タイプだ。

 

  千葉に生まれたトミーは、クリスマスのお祝いがないような、超厳しい家庭で育つ。その反動かなんなのか、中学では番長と呼ばれるほどのやんちゃを経験したり、いじめに遭ったりする。高校時代はほとんど勉強しなかったという彼は、偶然出会ったお笑いに感化されて、心機一転猛勉強。1年の浪人を経て、青山学院に入学した。

 

 そういった育ちの面を背景にした、カンタの真面目さ、謙虚さ、控えめさ。トミーのおおらかさ、豪快さ、優しさ。そういうものが「水溜りボンド」の中で存在感を表すときが一番しんどい。何も言えなくなるほどの、肯定的な感情が襲ってくる。

 

 

 彼らの過去を詳しく知りたい方は、YouTubeで「カンタ お坊さん」または「トミー 元ヤン」で検索すると出てくる動画を観てほしい。

 

 

 

 ここまで書いていて、無意識のうちにトミー派になっている自分に気付く。普段はどっち派とか、あまり考えていない体でファンをやっているが、実はトミー大好きだろう、私。

 

 

 ここでなんとなく、個人的な水溜りボンド観を述べておく。

 動画を投稿するだけであれば、多分カンタだけでも成り立つ。真面目なカンタなら、1人でも、他の人とのコンビでも、毎日投稿を続けることはできただろう。企画力もあるから、面白い動画は作れる。

 

 ただ、それは(当たり前だが)水溜りボンドじゃない。トミーがいて初めて、「トミーとカンタが動画を作っている」意義が作られる。

 水溜りボンドの動画に特徴的な、自然体さとか、しょうもなさとか、2人が率先して楽しんでいる様子とか、そういうものはトミーがいるからこそである。カンタの隣にいるのは、ただ仲のいい友達では足りない。カンタを尊敬して、カンタの面白さを積極的に伝えようとするトミーが必要なのだ。

 

 トミー1人での活動、というパターンを考えていないことに気付いた。言うまでもないが、動画を出したいと提案したのがカンタだった以上、トミーだけでの水溜りボンドは成り立たない。何かのきっかけで動画を出すことになっても、毎日投稿にはならなかったと思う。

 

 

 色々考えながら書いたが、どうしても、カンタの次にトミーがいる、カンタをトミーが支えている、というニュアンスから脱することができない。

 でも実際そうなのだろう。トミーのスタンスに照らし合わせればごく自然なことだ。トミーが「カンタの面白さを伝えたい」という意志のもと水溜りボンドに参加している限り、カンタをトミーが支えているという構図は無くならないと思う。

 

 だから、どうしても上記のような構図で水溜りボンドを見てしまう、と心配している視聴者は安心してほしい。あなたにはトミーの意思が的確に伝わっている。そういう心配をしているあなた、多分トミーファンなんじゃない?

 

 

 ああ、だめだ、かなりトミー側にかたよった文章になってしまった。これじゃ水溜りボンドを好きな理由が「トミーが好きだから」になってしまう。いやそれも理由の1つにはなるんだけれど。

 

 

 最後に、どちらかというとカンタ側に寄った「好きな理由」を書こう。それについて最近引っかかっていることもあるから、よければ読んでほしい。

 

 私は、日々新しいことに挑戦する水溜りボンドが好きだ。チャンネル登録者数が増えて、やれることが増えてくるにしたがって、ちゃんと新しいことに挑戦している。RPGに例えると、レベルが上がったら、今までよりも難易度の高いクエストを引き受けている。

 

 コラボへの挑戦、ワクワクさんへの出演依頼、米村でんじろうサイエンスプロダクションへの実験協力依頼。そういう、カンタさんの行動力は本当に見習いたい。きっと、自分たちの夢を叶えるため、そして視聴者に喜んでもらうための行動なのだろう。そういうところが大好きである。

 最近は特にその傾向が顕著、というか、1回あたりのレベルの上がり方が大きい。無人島生活、村づくり、大量系企画、ジェット機搭乗など、お金の面でも時間の面でも、できるようになったことを遠慮なくやっている。そうやって、やりたいことに挑戦できている彼らは、どうしようもないくらい楽しそうなのだ。見ているこちらも、我を忘れて爆笑する。

 

 そういう彼らの変化の中で、最近「水溜りボンドらしさ」という問題が浮上してきた。昔の方がよかった、という意見が目立つようになった。お金をかけ過ぎだ、という視聴者が出てきた。

 

 

 

 水溜りボンドに伝えたい。やりたいことでやれることは全部やってくれ。お金をかけようが時間をかけようが、やりたいことをやってくれ。面白いと思ったことをやってくれ。

 

 

 

 企画内容の変化によって水溜りボンドらしさが無くなることはないと、彼ら自身が言っていた。だったら視聴者として、とことんその言葉を信用しようではないか。

 

 私はトミーと同じように、カンタのやることを観ていたい。カンタの面白さを、身をもって伝えるトミーを観ていたい。できるだけ長く、たくさんのことに2人で挑戦してほしい。私は彼らの変化も変わらないところもひっくるめて、大好きな水溜りボンドとして、できるだけ長く見守っていたい。

 

 彼らの変化についていけなくなったら、振り落とされる覚悟だ。

 

 

 

6年2組の名漫画家

 

 6年2組には、漫画家がたくさんいた。「友情、努力、勝利」にあこがれた少年と、学園パロディを読み耽った少女とが、こぞって漫画を描いていた。私もその中の一人だった。

 

 休み時間に漫画を描くことが習慣となっていた。私の作品は、そのころ好きだった、たまごっちやどうぶつの森の二次創作が中心である。宿泊学習などの学校生活や、妹とのごっこ遊び、ゲーム内で実際にあったことなどを題材にして漫画を描く。

 

 思い出せる限り、私の小学生時代一番の力作は、たまごっちの二次創作の「たまレンジャー」だと思う。かっこいいヒーローに憧れたたまごっち5人が不思議な力を手に入れて、たまごっち星を狙う敵と戦う漫画だ。今考えると技名にしろ衣装にしろ相当ダサかったが、あの時は使える技術を駆使して得意げに描いていたものだ。当時は本気で漫画家になりたいと考えていた。

 

 漫画を描くのも楽しいが、友達に見て読んでもらうのがまた楽しい。ちゃんと漫画を描くとなると、みんながみんなやることではないので、読んだ人は大体褒めてくれるから気分がいい。漫画を描いていた他の子たちもそうだったのか、いつしか漫画を描く同級生の中でコミュニティができていった。

 

 私は自由帳にガリガリと書いていく派だったが、描いた漫画を単行本形式にまとめている同級生もいた。よくあるパッド状になっている落書き帳から1、2枚紙を離し、半分に折ったものに漫画を描いていく。できた単行本は学級文庫に陳列することが許されていて、クラスの人たちは作者に断るでもなく、勝手に借りて読む。最新巻を読み終わると、まるで売り物の作品を読んでいるかのように、次の単行本の完成が待ち遠しかった。

 

 1番人気は、ある男子(うごメモ時代のペンネームからB先生と呼ぶことにする)が描いたアクション漫画だ。ごく普通の野球少年Oは、ひょんなことから地球を侵略しようとする敵に出会い、仲間たちとともに地球を守ることになる…みたいな内容の漫画だった気がする。序盤どうやって始まったか覚えていないのが惜しい。

 

 主人公とその主な仲間たちは、6年2組の同級生をモデルにしており、それぞれ自分の得意分野を生かして戦う。主人公Oは野球、2枚目キャラのYはバスケ、紅一点のYはピアノ…といったようなものである。同級生がモデルなだけあって、漫画が雑談のネタにもなりやすい。B先生が同級生のことをどのように見ているかもわかるのがまた面白い。

 

 敵キャラの個性の強さも特徴だった。外見もさることながら、セリフの癖が強い。一番印象に残っているのは、戦闘中、余裕綽々(しゃくしゃく)な敵キャラが発した「早く帰ってケーキ食いて―」である。超むかつく。むかつくからまた印象に残る。何度このセリフのモノマネをしたことか。

 

 ここまで書いておいてなんだが、B先生のこの作品、キャラクターデザインの基礎は棒人間なのである。顔の特徴こそ十人十色だが、体は棒人間。キャラデザはシンプルの域を超えていたが、それでも本当に面白かった。内輪ネタのようになっていたのもあるのだろうけれど。シンプルゆえに、誰でも真似して描けるのも楽しかった。

 

 残念だったのが、終盤キャラクター数が増えすぎて、ついていけなくなってしまったこと。70話を超えたあたりからだんだん物語が複雑になってきて、物語が最後どうなったのか全く覚えていない。100話を超えたことしか思い出せない。もしかしたらこれも連載が長い漫画の現実なのかもしれない。それにしても、覚えていないことが悔しい。

 

 B先生は高校を卒業後、専門学校に進学して漫画かイラストのことを学んでいるようだ。飽きないなあと思ったが、そういう私も来春から専門学校で同じようなことを学ぼうとしている。そういう仕事に就こうとするぐらい強烈な経験をしたのだと思う。

読書力をつけなければいけないような気がする

 

 齋藤孝「読書力」を読んだ。

 

 図書館で借りてきて読み始めたら、割と序盤に「本は本屋に行って身銭を切って買うべきだ」「本屋に行けばすぐ手に入る本を図書館で借りているようでは見込みがない」みたいなことが書いてあって、申し訳なくなった。誰だ、この本を図書館に置いたのは。この本を借りる行為が既にこの本の主張と矛盾しているではないか。

 

 齋藤先生が「読書力」がある、と考えるラインは、文庫本100冊、新書50冊を読破しているレベルだという。私は今まで、どれだけ読んできたのかと気になったので、読書管理アプリをインストールして、今までに読んだ記憶のある本を片っ端から登録していった。今、やっと60冊台に乗っている。

 中学生の時に読んだ本とかあまりおぼえてないし、高校生ではあまり読書をしないできてしまったのが痛い。中学時代に、山田詠美の「蝶々の纏足/風葬の教室」を読んだことはやけに覚えている。植物図鑑とか読んでおけばよかったのに。老人と海を避けないでおけばよかったのに。教室の後ろに学級文庫があった時代にもっと読んでおけばよかったと後悔している。

 

 最近は、というか、高校生あたりから小説を読むことが少なくなってきて、もっぱら新書か単行本ばかり読んできたので、文庫本のストックが少ない。急遽ブックオフで3冊ほど買ってきた。

 

 150冊までまだ倍以上ある。頑張って本を読むのもそうだが、今まで読んだ本を思い出さなければいけない。60冊しか読んでないというのはあり得ないだろう。思い出せていない本があと10冊はある気がする。見れば「ああ、読んだことある!」と思うはずなのだ。図書館を巡回して思い出すしかないだろうか。

 

 どこまでを本としてカウントすればいいのかも悩みどころだ。中学生のころむさぼり読んだ「まんがで読破」シリーズはカウントしていない。ちゃんとオリジナルも読んでおけばよかったのに!ティーンズコーナーに置いてあった「ハッピーバースデー」はアウトだろうか。一応形は文庫本なのだが。文芸書版も読んだことがあるから、それと一緒にカウントしようか。同じ理由で「カラフル」も迷ったが、こちらは悩んだ末にカウントしてしまった。羅生門を教科書で読んだ、とかはまあダメだろう。

 

 いまアプリを見返してみたら、ことのほか単行本が多い。齋藤先生的にはあまりよろしくない感じなのだろうか。いや、でも単行本数えないと無理だ。全然足りなくなる。

 

 ブックオフや書店で本を物色するのと並行して、青空文庫にも手を出してみた。なんと無料で文豪たちの名作が読めるのである。全然身銭を切ってないじゃないか。今は「吾輩は猫である」を読んでいる。上下巻に分かれていないので、ものすごく長く感じる。全然読み終わらない。

 

 読書力をつけると、情報処理能力が上がって、語彙力が上がって、コミュニケーション能力も上がるのだそうだ。読書力でもつけなければ、私はこの世の中で生きていけない気がする。150冊への道のりは険しい。

 

 

「頭のいい人」とテスト

今週のお題「テスト」

 

 テストは昔から真面目に受けていた。小学生の頃はもちろんテスト勉強なんかしていなかったが、宿題のドリルがテスト範囲になっていたりするので、宿題を真面目にやっていた私は100点か95点ばかり取っていた。小学生のテストなんてみんなそこまで悪い点数は取らないだろうに、その時点でなぜか同級生には「頭のいい人」扱いされていた。この「頭のいい人」のレッテルは、以後長く私を苦しめる。

 

 中学生になって初めて受けた中間テストは、数学で100点を取り、英・国・社・理は96点、合計484点で学年2位だった。同率2位であった小学校からの友人も数学で100点を取っていた。彼女は後に県トップの県立女子高に入学、この時学年1位であった男子生徒は県トップの県立男子高に推薦入学した。私は地元の県立女子高に入学した。大して勉強にも、トップ校に行くことにも興味がなかったのだ。

 

 しかし、入学後初の定期テストで学年2位なぞになってしまった私は、不覚にも中学卒業まで上位争いに巻き込まれてしまうことになる。普段は課題で出された分の勉強しかしない私だが、真面目で従順な性格ゆえに、テスト勉強はまじめにやってしまう。その分成績は良くなってしまうので、さらに上位争いに巻き込まれる。厄介だ。

 

 テストの結果が返却されれば、同級生はまず、私ら上位常連衆の順位を聞いてきた。定期テストの順位はちょっとしたゴシップのようだった。1度学年1位になってしばらく経てば、担任までもが「1位に返り咲いたりしてみたくない?」などと言ってきた。もちろん1点差で同級生に負けたり、成績が下がったりすれば悔しがりもしたが、ほっといてくれよ、と中学生ながらに思っていた。

 

 成績が良いことは何も悪いことではなく、むしろ歓迎すべきことなのは当たり前だ。それでも、そこまで勉強の意欲もないのに、「頭のいい人」のレッテルに取りつかれ、トップ内の競争の面倒さや外野のうるささに巻き込まれて疲弊していた私は、最初からこんなに真面目に勉強しなければ、ここまで面倒臭くならなかったろうに、などと考えたものだ。贅沢な悩みだが、当時は本気で悩んでいた。

 

 中学を卒業し、高校に入学した私は、「頭のいい人」のレッテルの呪いをやっと解くことができると、内心ひそかに喜んでいた。しかし、入学直後の課題テスト、ふたを開けてみれば、中学生のときと大して学年順位が変わらない。これでは「頭のいい人」の呪いが解けないではないか。中学のときより成績の平均が上がっているはずなのに。学年の人数だって倍以上になっているのに。何故。

 

 そうは言うものの高校1年の1学期期末試験。勉強不足だった数学で平均点を切ってしまった私は、ものすごく落ち込むことになる。悪い点数を取ることに対する免疫がついてないのである。そうなると、いくら「頭のいい人」から抜け出そうとしても、無理な話だ。もう私には、勉強するしか道が残されていなかった。

 

 当たり前のことだが、ちゃんと勉強するようになったら、ちゃんと成績も順位も伸びてしまった。順位だけ見れば中学時代よりも上だ。中学ではそんなことなかったのに、模試を含めて学年1位をがんがん取るようになった。そして一番良かったのは、私が学年何位だろうと、周囲がしつこく順位を聞いてくることがなくなった。担任だって、試験の成績を渡すときは黙って渡していた。テストのたびに「頭がいい人」かどうか、確認されることがなくなった。

 もちろん「頭がいい人」というイメージは高校3年間も付いて回ったが、どうせ勉強しなければならない進学校という環境の中でそう思われるのは、むしろ誇らしくもあった。高校時代はテストの成績が良かったおかげで、勉強友達から始まってかなり親しくなった友人もいる。そのおかげで今勉強嫌いにならずに済んでいる。環境って大切だと思う。

 

 以上、テストとレッテル貼りの思い出の話。今月は乙4の試験があるので、テスト勉強にラストスパートをかけているところである。

 

 

 

自分のことを話すことが苦手で、もっぱら聞き手役に回る

 

 私の友人のほとんどは、自分のことをよく話す。好きなゲームやアニメや小説の話、大学生活の話、旅行の話、恋愛の話、宝塚歌劇団の公演に行った話、アルバイトの話など、話の内容を挙げていけばきりがない。とにかくよく話す。よくそんなに話すネタがあるな、と感心してしまうほどよく話す。私は主に友人の話を聞いている、聞き手役だ。

 高校生の時、何人かの先生と雑談する機会がよくあった。雑談と言っても、その場合も、やはり向こうが自身のことを話すのが中心で、私は主に聞き手役だ。足を怪我した話、校長先生のマグカップの話、息子の受験の話、先生のあだ名の話など、やはりたくさん話す。私はそれを聞いて、相槌を打つ。

 私はそのことを不満に思っているわけではない。そうやって人のいろいろな話を聴けるのは楽しい。それに、私は自分のことを話すのを苦手としている人間なので、かえって助かっている。天性の聞き手なのだ。教務主任の先生と会話していた時に、「あなたは相手の話を本当に楽しそうに聞くのね。こっちも嬉しくなっちゃってどんどん話を続けてしまうわ」と言われたときは心底嬉しかった。

 しかし、私と同じように自分の話をするのが苦手な人と会ったときは大変である。自分から話すのが苦手なうえにいつも聞き手役ばかりやっているので、何を話せばよいか、いちいち頭の中で考えてしまうのである。いつもは相手から話をしてくれるからそれに乗っかっていけばよいが、この状況では乗っかる話がない。その人と会いたいから会ったのに、うまく会話ができなくて微妙な雰囲気になってしまうのは情けない。

 そもそもこういった、私と同じタイプの人間に出会うことが珍しいので、場数をこなして慣れることも難しい。私の知り合いでも1人か、2人いるかのレべルだ。いつもは聞き役でも、私と話すときは向こうから喋ってくれる人の方が多い。

 なぜこんなにも自分から話し始めるのが苦手なのだろう。別に話題がないわけではないと思う。好きなものや趣味はあるし、普通に生活していれば愚痴とかも話せるだろう。多分、なんとなく自分の好きなことや自分の生活に後ろめたさを持っている気はする。自分のやっていることに自信が持てていないのだ。

 普段どんな生活をしているかとか、なぜか大っぴらに言えない。別に、例えば昼まで寝ているとか、一日中漫画を読んだりゲームをしていたりする、と正直に言えばいいのに、そういうことが言えないのだ。中学高校では中途半端に成績が良かったりしたから、さぞ休日も勉強ばかりしているのだろう、と思われているような気がして、そのイメージを崩すようなことを言う勇気もなかった。

 変に気にしいなので、「こんな話をしても退屈じゃなかろうか」とか、余計なことを考えたりもする。とくにに相撲が好きでない人に、やれ鶴竜が可愛いだとか、錣山親方がハンサムだとか、輝が今キているだとか言ったって困惑されてしまう。だからと言って相撲を知らない人向けに簡単な話をするのは自分がつまらない。だったら話さなくてもいいか、と思ってしまう。

 来春には専門学校への入学というイベントが待ち構えているので、その時にはもう少し自分のことを大っぴらに話せるようになりたい。ただ入学する学科(イラストレーション系)の性質上、さらに聞き手役の性格を強めることになりかねない気もしている。オタクは自分の好きなことをよく話すから…。